醜い看板

朝ドラの「半分青い」 で、スズメは律に「看板に守られている」と言い放った。確かに、職業や学歴や血筋の、これみよがしの看板は醜悪だ。

と言いながら、芸名に教授をつけている(笑)大学の仕事はあと1年半。やめても芸名は変えない。

「教授」は、養成所で老いた後輩の名前を呼びやすくするためつけたもの。

持っているものに気づく

以前、5年ほど前、心筋梗塞に見舞われ、死にかけた。肉体的な自信をなくし、回復不能な心臓の部分的壊死に直面した。その入院した病院で、深い喪失感に見舞われていると、担当の医師が「鷲田さん(本名)、あなたは自分がどれ程たくさんのものを持っているかに気づくべきだ」と言われた。

その言葉は今でも心に響いている。その言葉で、他人と比べることの無意味さ、自分の可能性への気づき、焦りや、妬みや、コンプレックスから自分を解き放つことができたように思う。

粋な生き方

粋(イキ)と野暮(ヤボ)という対語があります。

野暮というのは、外見も心も、自分を重く厚く飾り立てて見せようとすることで、粋はその逆だと、私は思っています。

できるだけ粋な生き方をしたいものですね。

帯状疱疹の経過

経過

6月24日前後から、左手の二の腕のヒジ関節近くのところがチクチク痛くなる。最初は、なんだか痛いなという感覚だった。仕事中は忘れるくらい。

26日、近所の整形外科にかかって、レントゲンをとるが、原因不明。カロナールという痛み止めとシップを処方される。痛みは全く治らない。カロナールは効かなかった。

27日ごろ、肘の先がわに1cmくらいの小さい薄い湿疹出来る。

28日の夜になって、時折(数分から数十分おき)、左腕から肩にかけて、電気的衝撃が走るような痛みになって、眠れなくなる(睡眠導入剤の力で眠る)。翌日朝、歯医者でもらっていたロキソニンを飲んだところ、痛みが緩くなる。ロキソニンは効いた。湿疹はそれほど広がっていないが、帯状疱疹を疑って、

30日皮膚科にかかる。医師が「これは」と言って、すぐに湿疹のあたりをピンセットでこすって、検査薬につけて10分待たされる。医師に、検査セットの二本スジを見せられて、帯状疱疹ですと、宣告される。ストレスがあったでしょうと言われるが、あまり覚えはない。そういえば、歯周病だったところがまたぞろ痛みが一時復活していた。関係あるかもしれない。抗ウィルス薬とビタミン12、そしてロキソニン、胃薬を処方される。ウィルスは水疱瘡のウィルスと同じで、多くの人がすでに持っていて、体力や抵抗力が落ちた時に、帯状疱疹になる場合があるのだという。大学で教えているのですがと言ったら、大学だと大丈夫でしょうとのこと。ただ、接触は最小限にしようと自主的に判断。その日くらいに湿疹が肘から、手のひら、指まで少し広がる。それぞれ小さく、大きなものではない。
(写真は7月1日ごろ)

2日ほどは、ただ痛みを抑え込んでいるだけ。ロキソニンはよく効く。湿疹から、小さな体液の粒が現れる。ただ、薬を飲んで3日目くらいから、湿疹の赤みが取れる。一日3回のロキソニンは不要になり2回くらいで良くなる。体液の粒は消える。かさぶたにもならないくらい。湿疹の面積も小さくなり、回復が実感できる。
(写真は7月3日ごろ)

薬飲み始めて4日目、7月4日、だいたい朝と夕にロキソニンを飲まなければなかったのが、朝、いつものように薬の切れた痛みのチクチクが弱まる。結局、湿疹も大して広がらなかった。こんなことなら予防接種を受けておけばよかったと思う。

7月7日、薬を飲み始めてから1週間、湿疹や赤みはほとんど取れた。ただ、腕に痛みが時々電気ショックのように走る。が、それほど強い痛みではない。ロキソニンも6日の朝に飲んだきりである。昨夜も、痛みはあったが寝れたので、問題ない。この日の朝、医者に行って、ビタミン剤と夜寝る前に1錠だけ飲む痛み止めをもらった。痛み止めはその後飲まなかった。

7月8日、湿疹は治った。朝の間に、時々シクシクと起こっていたヒリヒリした痛みの痕跡が、なんだか消えたみたい。完全に治ったよう。

7月9日、いやまだ治っていなかった。ときどき、ピリ、ピリと痛くなる。帯状疱疹後神経痛になっているのだろう。当面、ビタミン剤だけ飲んで、それ以後は放置する。気にしないようにする。実際、眠れているのだから。

7月14日、痛みが相当薄らいでいる。いつも、起きているときは、散発的に痛みが出る。寝るときは、横になると痛みが出てしばらくすると痛みが収まって、寝ている時には痛みが出ない。そんな繰り返しだったが、その痛みを全く自覚しない時間が長く、たまに、名残のような痛みが出るだけである。
(写真は7月14日ごろ)

7月19日、ほぼ治った。

人の皮膚の再生力

1ヶ月以上前、2018年5月21日に、胸の皮膚の直下にできた腫瘍を切り取る手術を皮膚科で受けた。良性だろうからほっといても悪くはないが、大きくなる可能性はあると言われ、結局とってもらうことにしたのだ。実はそのあたりは、今から40年以上も前、交通事故で深い切り傷を負ったところだ。今から20年ほど前、その傷跡から、二ミリくらいのガラスの破片が見つかって、外科でとったことがあった。その時も、そのガラス片は、黒ずんだ脂肪のようなものでしっかりと覆われていた。体の方で、危ないものを包み込んだのだと思う。また、それと同じように、何か小さなガラスか何か、交通事故の時のものが残っているのではないかと思ったが、腫瘍の原因は医者はわからないという。

良性だという話だが、病理検査の結果は医者からまだ聞いていない(笑)。1センチほどの腫瘍で、術後、取り出されたのを見るとパチンコ玉くらいの脂肪の塊で、あれほど丸っこいので多分ガンとかではないのだろうと自分でも思っている(写真に撮っておけばよかったと後悔している)。医者もガンを疑っているわけではないと繰り返した。

書きたいのはそのあとのことだ。取り出すために15ミリから20ミリほどの横長の傷を皮膚につけた。それを術後、医者が時間かけて縫った。一週間後に、両端を除いて抜糸したのだが、私が、血液サラサラの薬(バイアスピリンとエパデール)をのんでいて出血が止まりにくかったことも影響していると思うが、抜糸したところがまた、パックリと開いてしまった。おょ、という感じである。

医者は、抗生物質の塗り薬、フシジンレオを塗ったガーゼで抑えて、また一週間後来なさいと行ったのだが、じわじわとして出血は止まりそうにない。風呂は、防水の絆創膏で完璧にガードしながら入っていた。それでも、さらに一週間経った頃、粘着性が高まって、痒かったせいもあるが、夜中に絆創膏を無意識のうちにとってしまった。翌朝起きたら、そこが薄いかさぶたになってしまっていた。

それでまた、医者に行ったら、フシジンレオを塗られ、その結果として、かさぶたが溶けて、また、じわじわ出血。おいおい。夜中にまた無意識のうちにそれをとって、朝起きるとかさぶたになる。もう、かさぶたのままにしておこうと思い、医者にもいかずほっておく。すると、かさぶたがしっかり固まり、さらに日にちが立つと、なんだか、だんだん小さくなって行って、最終的に1.5ミリx3.0ミリくらいの大きさになっていた。偏執狂的に、かさぶたを取らないようにしていたのだが、ある日、そのかさぶたがぽとりと落ちると、もう、その下が皮膚のような物で覆われていて、滲み出すものも何もなくなっていた。治ったのだ。

あんな、パックリと開いた2センチ近い横広がりの深い傷(1センチの腫瘍を取り出したのだから)が、治ったのだ。いまの状況は、皆さんは見たくないかもしれないが、露悪趣味で写真をお見せするとこんな感じである。

腫瘍を取り出した後のところは少し黒ずんでいる。まあ、それはそうだろう。空洞にするわけではなく、体の方で、みずから何かを詰め込んだのだろうと思う。しかし表面には、傷跡はほとんどない。パックリ開いてたあの傷はどこに行ったのだろうか、という感じである。

本当に、あのパックリかんと、傷の深さは、治らないのではと思わせたものがあったのだ。63歳の老人だから、そんな再生力はないはずなのだが、皮膚の自己再生能力には驚くばかりである。まあ、化膿しなかったからよかったのだろう。そこは医者の能力である。ありがたい。

私は心筋梗塞の後始末で、血液サラサラを生涯飲み続けなければならないので、手術と出血は、これからもつきまとわれるだろうが、今度のことをよい経験としたいと思う。

死にかけたときのこと

今から、四年三ヶ月前、本当に死にかけた。急性心筋梗塞になった。三本の太い冠動脈のうち、一番大事な真ん中のやつの根元が100%つまった。詳しいことはまた書くこともあるだろう、人生最大の痛みを感じ、医者から「生死がかかっています」と宣告された。

運よく生き残った。いわば、三本のくじがあり、生き残るためにはそのうちの一本の当たりくじを引かなければならないという状況で、どれかわからない当たりくじを引いたということだ。

激痛と緊急手術の中で、ああ、これで死ぬかもしれないと思った。救急室の中で、天井を見ながら、そう思った。「ええ!こんな簡単に死ぬの!?」と思っていた。もっと厳かな状況だと思っていた死が、いとも簡単にやってきたので驚いたのだ。もっとすったもんだがあっていいんじゃないのかと思った。

話はそれるが、手術を終えてICUに入った時、職場から駆けつけた妻にあった。何かの拍子に妻が笑った。その笑顔に、とてつもなく慰められた。ああ、この笑顔とともに何十年も生きてきたのだと思った。

たまたま生き残ったが、おかげで死生観が変わった。「死とは、道路でたまたま小石につまずくようにやってくる」と思うようになった。誰でもつまずく。死ぬことを悩んだり、不思議がっても仕方ないと思うようになった。

そして、生きている状況の中で、「今見たり聞いたり、行ったり、語ったりしていることが、本当に生きる価値につながっているのか、と考えるようになった」大概はそれほどの価値はない。つまり、このために、生きててよかったと思うことはそれほど多くはない。世界は、それほどの価値あることで埋め尽くされているわけではなく、どうでもいいことがたくさん詰まっていて、中にいくつか価値あるものがはまっているだけなのである。それでも、あえて死ななくても良い。ほどほどに、楽しめるし、その意味では生きる価値はあるからだ。

死神がいつも隣を歩いている状況で生きているようなものだ。

せっかく生き残ったんだから、目一杯、人生を楽しんでやろうという気持ちも生まれた。これは確かに、前向きな、いい心持ちだ。

一方、無理しても仕方がないという気持ちも強くなった。一度死にかけた人間が、また、何か大それたことを成し遂げようなんて、おこがましいという気持ちではないか。

人は100パーセント死ぬ。毎日毎日、世界では、膨大な数の人間が死んでいる。人間の歴史は、人がバタバタと死に続けた歴史だ。それこそ数え切れないほどの死が積み重ねられて、今の人間たちがいる。戦争ともなれば、無数の理不尽な死がある。そんな戦争を、人間は繰り返してきた。理不尽な死は避けたい、いや、避けるべきだ。

諸君、いずれは、潔く、死のう。ただ、それまでは、妬んだり拗ねたり切れたり驕ったりせず、やって来る現実を飄々と受け入れ、天真爛漫に生きていこうじゃないか!!

自分のサイト、そしてサーバー

自分のサイトを作ったら楽しいな。
アメーバでもいいじゃないかと思うかもしれないが、あそこは、なんだか、書かされている感が強い。もっと読んでもらうように書きなさいよと急かされているようだ。
でも、ここは違う。誰に読まれなくてもいい。たまに来た人が、たまに書いたことを読んで素通りして行けば良い。ただ、吐き出すために書けば良いのだ。だいたい、そう人は訪れないだろう。プロフィールには、今まで書いたこともないようなことをたくさん書いた。妻に叱られたが、消す予定は今の所ない。
このサーバーは借り物だが、月980円、いたって安い。
wassii.comのほか、私のロボット専用ドメイン ibot.co.jp、それにもう十年以上も使っている、washida.netそれにもう一つ、昔作った出版社のサイトもこの一つのサーバーで運用している。バーチャルホストでやっているのだ。超安い。
ウェッブサイトだけじゃなく、上記それぞれのメールアドレスも、全てこのサーバーで管理している。これ以外のメールは、大学のメールアドレスと、gmailだけだ。大学のアドレスは、もう一年半後には使えなくする。いや、厳密にはずっと使えると思う。大学は、生涯アドレスとか言っているのだ。でも常用する予定はない。
他にも、サーバーだから、他にもいろいろなネットワーク上の機能が持たせられる。今のところ性能は十分だが、足りなくなれば、少しお金を追加すれば、スペックは上げられる。
以前は、本当に家にサーバーを置いていたが、月1000円くらい電気代がかかり、しかもファンの音がうるさい。故障や停電の影響もある。しかし、外部サーバーに任せれば、そんなことはちっとも心配しなくてもいい。

矯めるということ

この矯める、いろいろな意味がある。あえてそんな言葉を使わなければ良いとも思うのだが、それ以外に、適切な言葉がないのだから仕方がない。

私の意味は、人弓を引くときに弓をたわめて、というか思い切って絞って、後ろに矢を引く。この状態を矯めると指しているとイメージして欲しい。

人は何かをしようとするときに、この矯めるが大事なのだ。ためが弱ければ、矢はすぐそこに落ちてしまう。矯めずに細かく矢を放っても効果はないのだ。

ただ、このためは逆に引いているので人には見えにくい。だから周りは「はやく撃て、はやく撃て、なぜ撃たない」となりがちだ。

矯めの大切さを知らない人間は、小さく成功できても、大きな成功はなし得ない。

だから、私は、大概のときは矯めているのだ。何もしていないかのようで、大切なことをしている。それが言いたかった(笑)