プロフィール

わっしー教授 (本名:鷲田豊明 わしだとよあき)ギリギリすれすれのプロフィール(2018年6月17日現在、書きかけ、いつかもっと書き足したい)
1955年 専業農家(1.5ha)の次男(兄と姉が一人ずついる)として雪深い地方の真冬に生まれた、家はただただ貧しかった、体弱く幼いとき肺炎で死にかけるが日本で普及し始めてそれほど経っていなかった抗生物質(母は、黄色い液体が効いたと言っていた)というものを田舎の診療所の医者に処方されギリギリ生き残る、真でもおかしくなかったのが母の執念で生き残ったのではないかと思う、その後、父母から愛された記憶は濃厚だが、期待された記憶はない、ただのはなたれ小僧だった、プレッシャーゼロだったが人生の方向はなかなか定まらないものだった、乳児か幼児の時、火傷を負いそのあとが今でも頭と手に残っているが、母は終生その経緯を語らなかった、父にも言わないようにと厳命していた(笑)母は、私のすぐ上の姉を幼くして無くしていた、その心の傷もあったと思う
1961年 福井県鯖江市立 立待小学校入学(科学クラブで電気工作担当、のちのロボットに通じる)
父から、不器用ゆえに農家に向かないと引導を渡され、自立を余儀なくされる、具体的には、田植えの手伝いをしていたら、お前の植えた苗は育ちそうにないからやらなくてもいい、というような趣旨のことを言われた、ああそうかと素直に受け止めた、同級生と喧嘩して頭に石をぶつけられ負傷、臨時教員の女先生に憧れる、科学者になりたいと周りにいうが、特に勉強はしなかった、父母とも尋常小学校出身、勉強については父は何も言わず、母は「がんばれ」としか言わなかった、あえて頑張る必然性はなかった、ただ母のがんばれという言葉は頭に響いた、村の上級生からいつも仲間はずれを食らう児童だった、お寺の鐘撞堂からお菓子をかじり泣きながら、同級生や上級生の遊ぶ姿を見ていた記憶もある、アマチュア無線の教材を買って自力で勉強したが結局受験できなかった(当時の電話級アマチュア無線のテキストには、周波数の同調の計算に平方根が出ていた記憶がある、いまはどうかしらない)、ラジオを分解した部品でワイヤレスマイク(送信機)を作成し隣のいとこの家のラジオで受信させたりもした、自分はすごい人間になるという妄想にとりつかれることがしばしばあった(笑)
1967年 福井県鯖江市立 中央中学校入学(3年間バレーボール部)
ひたすらバレーボールに打ち込む日々だった、また、喧嘩したり、すさんだところがあった、先生が嫌いで、何かと抵抗、内申書を盾に脅され「間違っても先生という仕事にはつくまい」と決意する、ギター始める、勉強目立たず、もてたりもせず、小説というものに出会う、学校の図書館に通うようになった、小説を書いているという国語の女先生に憧れる、彼女は授業の合間にいつも辞書を読んでいた記憶がある、高校入試のために真剣に勉強した記憶はない
1970年 福井県立 武生高等学校入学(3年間バレーボール部)
バレーのエースになった途端、チームは弱くなる(笑)、長編小説を読み漁る、小説家がいいと思うようになる、全くもてず、勉強目立たなかった、ただ、どうしても福井を出たい家を出たいと思ようになる、それでようやく3年になると、バレーで疲れて早寝するが、朝3時には起きで勉強するようになる、母に起こしてもらった(母はそれからまた寝る)、教師に、ケアレスミスばかりするのは、気持ちに落ち着きがないからだとして毎日仏壇に参るようにと命令されて、しばらく実践した記憶がある、その後そういうミスは少なくなったような気がする(笑)当初、小説家になるために文学部を志望したが、担任教師から「文学部では生活できない」と進路指導され工学部電気に変更(頭が理系であることを見抜かれていたのかもしれない)、裏日本から表日本に出るには名古屋がいいと思う(いまでも、名古屋がベストな選択だったのかは確信はない)、他に唯一受けた私学の立命館にも合格したのだが、母が入学金を払わずボツになり、名古屋にかけるしかなくなった、入試は数学のかなり長い問題を最後まで解いたという記憶以外は特にない、合格発表の時、兄が日産クーペで名古屋まで連れて行ってくれた、兄と一緒に発表の掲示板を見て「ああ、合格したんだ」という感情が湧いた
1973年 名古屋大学工学部電気工学科入学(情報工学、プログラミング)
下宿するつもりだったが、大学の寮、嚶鳴寮が決まり入寮、家賃電気代で数百円だった記憶がある、奨学金が月1万2千円もらえた、ありがたかった、それだけで暮らせないことはなかった、授業料は免除された、寮の居心地が良すぎて大学に行かなくなる、最初の同室だったNさんはその後京都大学教授になった、ただ、地球物理の人で寒い山に行けるようにと真冬でも半袖、窓も開けるので、1年で耐えられず部屋を変わった、ほとんど勉強せず劣等生、学生運動、サークル活動に明け暮れる、数学は好きだったのだが、大学の数学の授業でε-δ法というのが出てから興味をなくす(これについては、経済の大学院進学の時に自力で位相数学を勉強し直して結局習得できた、笑)、教養の単位をギリギリでとり学部進学(ドイツ語の単位を全て落としたが、代わりの数学でなんとか代替できた)、始まったばかりのコンピュータ工学の研究室に入る、Lispというコンピュータ言語が研究テーマだったまともに勉強しなかった、福村先生申し訳ありません(今現在Lispは、コンピュータエディタのemacsを制御する程度には理解している、笑)、ただ、その後、経済学には鋭い興味を覚え自力で経済学と数学を勉強する、大学のインパクトか、人生初めて少しモテる(笑)、2年交際した21歳の看護師と結婚1978年その後40年以上連れ添う、子供授かる、この辺りで「これから自分は、世界に対して頭で立って生きていこう」という決意をした、人に頭をさげて、足で歩いて暮らしを立てるようなことはしないという意味だった、ジョン・スチワート・ミルの「自由論」の影響を深刻に受けた
1983年 神戸大学大学院経済学研究科入学(理論経済学、計量経済学)
妻は働いていたが、私は無職なので、ここでも授業料は無料だった、さらに奨学金が月7万円もらえた、この国はありがたい制度を持っていると思った(結局国立大学の教員をそれなりに勤めて、大学時代の奨学金はすでに払ったもの以上は免除(金額記憶なし)、大学院時代の奨学金(二百数十万円)は全額免除となった、国に、それを支えた国民に感謝以外の何物でもない、この歳まで教育に勤しんでその恩返しはしたつもりだ)、大学院では故置塩信雄教授、故斎藤光雄教授に師事。人生で初めて師匠と言える人に出会った、最高のものを学んでいるという意識があり、それがその後の自信になる、バイトもせずにひたすら研究に打ち込む、普通の大学院生よりも6年くらい遅れ、子供もいて、違いを感じていたが、今思えば、大した差ではなかった、でも、同輩たちと楽しい大学院生活だった、記憶に残るのは楽しい思い出ばかりである、妻は神戸でも一貫して看護師を続け、我が家の生活を支えた、彼女にいくらの借りを作ったのかは不明だが、その後、主に生活を支える収入を得たの私だったが、いまだにこのころ、数年間の借りを返せていないらしく「あの頃支えたのは私なのだから」というのが、彼女の私に対する強みになっている、いくら返しても返しきれないブラックボックス的なものになっている(笑)
1986年 大学教員、教師になろうと思ったわけではなく研究がしたかったのだが、教師も手を抜かなかった、ただ忸怩たる思いはある
1991年 和歌山に家を買うものを、神戸に移動するために売却(損失)、1997年、神戸に家を買うもののこれも売却(損失)
2001年 一旦、大学教員辞める
2002年〜(2020年 定年退職予定) 大学教員に戻る、神戸大学退職時、当時の学部長に「二度と大学の教壇には立ちません」といったにも関わらず(笑)
2005年 東京都民となる
2014年 ロボットに漫才、演劇などをやらせる(youtubeあり)
2015年 お笑いで舞台に立つ刺激に魅せられ、松竹芸能タレントスクール入学
2016年 松竹芸能所属(若手芸人)
ツイッター @wassiisg
芸ロボット製作サイト http://ibot.co.jp/wpibot