死にかけたときのこと

今から、四年三ヶ月前、本当に死にかけた。急性心筋梗塞になった。三本の太い冠動脈のうち、一番大事な真ん中のやつの根元が100%つまった。詳しいことはまた書くこともあるだろう、人生最大の痛みを感じ、医者から「生死がかかっています」と宣告された。

運よく生き残った。いわば、三本のくじがあり、生き残るためにはそのうちの一本の当たりくじを引かなければならないという状況で、どれかわからない当たりくじを引いたということだ。

激痛と緊急手術の中で、ああ、これで死ぬかもしれないと思った。救急室の中で、天井を見ながら、そう思った。「ええ!こんな簡単に死ぬの!?」と思っていた。もっと厳かな状況だと思っていた死が、いとも簡単にやってきたので驚いたのだ。もっとすったもんだがあっていいんじゃないのかと思った。

話はそれるが、手術を終えてICUに入った時、職場から駆けつけた妻にあった。何かの拍子に妻が笑った。その笑顔に、とてつもなく慰められた。ああ、この笑顔とともに何十年も生きてきたのだと思った。

たまたま生き残ったが、おかげで死生観が変わった。「死とは、道路でたまたま小石につまずくようにやってくる」と思うようになった。誰でもつまずく。死ぬことを悩んだり、不思議がっても仕方ないと思うようになった。

そして、生きている状況の中で、「今見たり聞いたり、行ったり、語ったりしていることが、本当に生きる価値につながっているのか、と考えるようになった」大概はそれほどの価値はない。つまり、このために、生きててよかったと思うことはそれほど多くはない。世界は、それほどの価値あることで埋め尽くされているわけではなく、どうでもいいことがたくさん詰まっていて、中にいくつか価値あるものがはまっているだけなのである。それでも、あえて死ななくても良い。ほどほどに、楽しめるし、その意味では生きる価値はあるからだ。

死神がいつも隣を歩いている状況で生きているようなものだ。

せっかく生き残ったんだから、目一杯、人生を楽しんでやろうという気持ちも生まれた。これは確かに、前向きな、いい心持ちだ。

一方、無理しても仕方がないという気持ちも強くなった。一度死にかけた人間が、また、何か大それたことを成し遂げようなんて、おこがましいという気持ちではないか。

人は100パーセント死ぬ。毎日毎日、世界では、膨大な数の人間が死んでいる。人間の歴史は、人がバタバタと死に続けた歴史だ。それこそ数え切れないほどの死が積み重ねられて、今の人間たちがいる。戦争ともなれば、無数の理不尽な死がある。そんな戦争を、人間は繰り返してきた。理不尽な死は避けたい、いや、避けるべきだ。

諸君、いずれは、潔く、死のう。ただ、それまでは、妬んだり拗ねたり切れたり驕ったりせず、やって来る現実を飄々と受け入れ、天真爛漫に生きていこうじゃないか!!