ゼロである自覚

昔よく学生に「君たちはゼロなんだ」と話した。反感を持った学生もいたと思うし、理解できなかったのではと思う。否定的な意味ではない。ゼロである自覚が、人を爆発的な努力に駆り立てるという私の確信だ。この歳になっても、ゼロでありたいと思い、その特異点を極めたいと思う。

国語と数学

国語(読み書きというより、言葉で思考する力)と数学が、生きる上での基礎学力としては一番大事だと思っている。

数学が嫌いな学生は多く、たぶん役に立たないと錯覚している。

人は「数」にまみれて生きている。微分も積分も含め、数学は「数」に対する直感を研ぎ澄まし、足りない才能を補ってくれる。

新しいことを思いつくとき

何か、新しいことを思いつきそうになるとき、脳が流動化するというか、固まっていた脳がドロドロと溶け出すような気分になる。

そこからぼんやりと、イメージのようなものが浮かび上がってくる。

そんな現象は、大概、起きてしばらくの時に訪れる。朝がとても大事だ。

ロボット即興漫才のレベル

昨日妻に「ロボットが作る漫才のネタや謎かけは、今一つレベルが低いんだよな」とボヤいた。

妻は即座に「あなたのよりは面白いかもしれないわよ」と返してきた。

確かにそれは言える。ということは、私のお笑いのレベルはすでにAIに越されているということなのだ(笑)

アンチエイジング

心まで老いたくないと思う。挑戦することだ。現実の高い山は登れない。心の中にある高い山は登ることができる。頂上も見えないくらいだ。ただただ「無理だ」と諦めてしまうことが怖いだけだ。

AIと若者

常識に縛られたおじさんたちとは違って、若い人たちはAIとロボットの時代を生きていく、柔らかさがある。 世間という好奇な目をやり過ごすしなやかさがある。一貫性を気にするほどの過去も持たない。 ただひたすらに自分を楽しませる術を磨くことができる。おじさんたちはそれを片目で羨望している。

AIとおじさん

私と近い世代のおじさんたちの多くは、この社会の中で、スポイルされてしまったのだろうか。 それぞれに自分がいるべき世界を決めて、働き、稼ぎ、たかり、居座り、叫び、一見雄々しいが、悲しいほどに、痛々しいほどにしがみついている。 そしてただ、捨てられないものに捨てられる日を待っている。

AIやロボットは、おじさんたちの世代が生きている間に、社会の仕組みを根底から変えるだろう。 非常識が常識に変わるとき。常識を知らない船だけに時代の風は吹く。常識で固められた泥舟は沈むしかない。 しがみつくしかできないおじさんたちは、そんな時代でもまだ、しがみ続けるしかないのだ。

許せない人

人が歳を積んで溜まってくる厄介なことの一つに「許せない人」というのがある老いた私にもわずかだがある。また、緩解していくこともある。許さないといけないことも頭ではわかっている。神ではない、人間の小ささだ。ただただ、自分の傷のかさぶたをはがさないように、相手の心を傷つけたりしないように、遠く離れているだけだ。

雑草

東京も、人という野草が生い茂る野原だと思えばいい。確かに、本物の自然はない。自然の間を流れる風もない。でも、見知らぬ野草がしぶとく生きている様、踏まれても抜かれてもまた生えてくるありさまとみて、こちらに無関心なそんな野草に囲まれ、「ほっといて」と飄々と生きていける街と思えばいい。

愛について

愛というのは、人格の二重化なのだと思う。二重人格ではなく。人を愛するというのは、分裂した自分の人格の、もう一方を相手の中に見つけ、自分を再び一つにしたいと思う切実な衝動なのだと。欠落した自分の半分が他者の中にある。真の一体化は何をしても不可能だ。わかっても消せない。MADOROMI。